昭和43年9月13日 朝の御理解第32節


 唯今から、昭和43年9月13日朝の御理解を頂きます。

X御理解第32節「女が菜園に出て薬を抜くときに地を拝んで抜くと言うような心になれば、おかげがある。また、それを煮て食べるとき、神様頂きますというような心あればあたること無し」


信心生活というのは、一事が万事にこういうような心がけにならせて頂けること。信心生活と言うのはね、こういうような心がけに私どもがならせて頂いていよいよここに焦点をおいて生活させて頂くと言うことが信心生活、その結果どういう答えが出てくるかと言うと、人間と身代わりと達者とが約束されます。人間が出来てくる身代わりが必ずとものうて来ます。必ず、達者がついてくる。人間の真実の幸福が身についてくるというのです。ですから、本当に表面の所にまたこの奥の奥に秘められているところの御神意というものを、私たちは悟らしてもらってそういう心がけなって日常生活をすることです。ここでは、女がとここでは言うてありますけれども、やはりお惣菜の準備をいたしますのは、女ですから、やはり畑の野菜を取りに行くのも買いに行くのもこれは女ですから、女と書いてありますけれども、これは女に限ったことだけでは、ありません。ここんところは一切を何も彼にも拝んで見ると言う。お野菜だけのことではありません。履物を履かれるときは履物を拝む。バスに乗られるときはバスを拝む。家庭では主人が家内を、家内が主人を、親が子を、子は親を、従業員を店主が拝み、従業員は店主を拝む。お客さんを拝むと言うようにですね、一切を拝む。そういうような心になればとおっしゃる。そういう心になればということはね。いつも、こうやって手を合わせて相手にそうせなならんとか、その行をせなならんではない。そういう心であれ、拝む心でおれということ。いつも自分の相対しておるものの拝む心になれよ。ここには、そういうような物体とか、人間とかと言ったようなものではなくてです。そこにあるところの問題も拝まなきゃあ、いけない。そこに感じておる難儀も拝まなければいけない。そこんところにいよいよ信心の深さを感じられます。その問題、自分こそ、難儀と思っておる難儀を拝ましてもらう。そこで、その信心の深さと言うか、本当の事と言うか言うならば、信心をするものは開眼をおいて心眼を開けとおっしゃるが心の眼を開かなければ、それが分からない。自分今それを難儀と思うておるけれども、それを難儀と分かるから。ですから、ここんところまでは、わかりますよね。久留米の初代の石橋先生のご長男が光雄先生と申します。それは、もう取り次ぎ者としては、ご立派ですね。御結界にお座りになってお取り次ぎ者としてなさるということは、本当にやはり神様におつかいになって思う。お祝詞を奉上されてもお話こそそうなさいませんでしたけれども、本当に皆おかげを受けていたんですよ。ところが、子供の時、高いところから、落ちて頭を打たれ、それ以来何かいうなら、人間的に言うたら、抜けたところがあると感じられる。成人は、若先生と言わず、バカ先生と言ったような悪評と言うか表現をしたんです。けれども、確かにおかげを受けておった。生き生きとして、久留米に御比れいが輝いておりましたですね。そういうような状態でしたから、あるとき手続きの先生方が皆集まられたときにです。お**の席上でそれこそ、その当時の九州の偉い先生方が、おそらく甘木の先生もおられたであろう。福岡のよしき先生もおられたであろう。それこそ、たくさんな出社がございますから、その出社を先生方ご一緒に一同に集まってですね、ご納来がはじまった。一番上座に座っておられた桂先生が、いきなり、石橋先生を見ておっしゃった。「石橋さん、あんたげん息子は馬鹿じゃね。」とおっしゃった。言うほうも言うほうですね。やはり、*程口の悪い先生であったらしいですね。桂先生はそういうようなことがいくらも残っております。大変徳者でとおっておられた地の堀尾先生なんかも大変ご立派な先生でしたか。やはり、先生に対して「この***
甘木の安武先生の奥さんなんかは何時もこの「わらけつ」というておこられて怒られた。「百姓のことは何にもわからん」というようなんですよ。「このわらけつが」といわれ、そういうようなことが伝説のように残っておりますから、ずいぶん口の悪い御方であったらしいです。けれども、やはり、御神徳の高い御方であったですからね。飛ぶ鳥を落とすような勢いをお持ちでおられた。その先生がその当時久留米の石橋先生と言えば、本当に大徳を受けられた先生として有名であった。先生に向かって「石橋さん、あんたとこの息子はバカじゃな」とこういわれる。ところが、それがね、それをすかさず、と言うか、間ばつを入れず、「親先生おかげで信心がでけますよ」と言われた。「息子が、ああであるからこそ、先生私が信心がでけとります」とおっしゃった。「石橋さん出来した」と言うて一番に石橋先生に杯をさされたと言う話しが残っております。「信心はそれだと****
おかげておかげて信心ができます。石橋さんそれじゃあ、信心はそれぞと言うて杯を一番にさされたということです。ですから、これがたとえば、心眼を開いていないでも確かにその難儀な問題を通してだからこそ、一生懸命信心修業が出来ておるとするならば、それをおかげとして拝めるわけでしょうが。いうなら、難儀として感じておられるですよ。その難儀を例えば、金のない人もあろう。子供が言うことを聞かぬ人もあろう。病気をしておる人もあろうけれども、その病気がそういうことをきかん子供がその難儀と言うものが、あるからこそ、こうやって朝の四時から起きてきて朝の御記念を頂いておられる。それだけじゃあない。そのことをとおして信心の稽古をしておられる分なんです。ですから、そのことのおかげでということはそのことを拝んでおることなんです代。そういう心になれば、拝める。これがまして肉眼を通して心眼を開かして頂いたら、そこには、神様の御神愛というものがそこにはそれこそ、切なる神様の願いが、そこに込められておるのですから、ありがとうして物体のうしてと言うことになってくるのですよ。その難儀な問題一つにしても、昨日午前中奉仕させてもらっていてある方が参って来てその方が私に言われる人ですよ。まあ、分かり易くするためにその問題に触れにくい事ですから、ちょっと言い方をかえて申しましょう。その方は非常に表現が違います。けれども、甘い物がすきなんです。もうとにかく甘いものが好きなんです。ですから、もう甘いものは食べんぞと心に決めておっても、普通それを見らなければ、何ともないんです。けれども、目の前にでたらです。体ががたがた震えるぐらいにそれがほしゅうなってくる。あの断食なんかいたしますとお腹がいよいよ空っぽになってなんともない。ところが一週間なら一週間明けの時分になるとですね。もう、食べ物が、目の前にちらついてくる。目の前に出てくると確かに手ががたがた震え出してくるですよ。食べ物が目の前に出てくるとこれは断食したものじゃあないとわからん。それをね。目の前に見なかったら、まだ、五日目である、六日目である時はむしろ、それは頂かれんと思うとるから、もう今日は頂かれると思うと、確かにそれは、がたがた手が震えることあるです。その方は実はあるいは問題なんですけれどもね。先生、この世の中にどうして神様はこういう甘いものを作っておられることでしょうかと言われる分です。それは、実ない世の中に甘いものがあると言うことが実ないその甘いものを食べないと私は命を落とすかもしれん。私は甘いものを食べるために胃が悪くなっておる。人前もはばからずにその甘いものを食べるのに難儀をしておる神様はどうしてこういうような甘いものをこの世に作っておられるのだろうかと神様をうらみたいごとある。そんなことだと私も申しました。私も共感したことですから。その事を、神様に取り次ぎさせて頂きましたから、長唄に連獅子という舞がありますよね。連れ獅子と書いてある。白い獅子頭をかぶって親子の獅子が舞う踊りなんです。その連獅子の親獅子が高いところへ上って獅子頭を上に上げて、下におる子獅子を眺めておる状況を頂くんですよね。私はそれを頂いた時に神様はね、そういう御神愛、そういうご都合、どうしてこういう甘いものをこの世に作りなさったじゃろうかという、それこそ氏子、可愛い一念がです。そういうものをお作りになったんですよ。辛いものが好きな人は辛いもので命を落とす人がある。けれども、その好きなものをその甘いものをそこんところをです。信心をさせて頂いてお取り次ぎさせて頂いた。それこそ、がたがた手が震えるようなことがあってもそこを辛抱しぬかせて頂くということをその辛抱しぬかせて頂くその向こうにです。どうぞ、氏子、信心しておかげを受けてくれよ、とおっしゃるおかげがあるのです。そこのむこうにはです。甘いものが好きなものは甘いもの辛いものが好きなものは辛いもの、それも適量にちゃんと頂かして頂ける世界がある。だから、どうでもやはり、いっぺんそこんところをですね。抜け切ると言うか、いわば、獅子は自分の子を千尋の谷へ突き落とすと言うように万物の霊長としての人間ですから、万物の霊長としての人間の値打ちと言うものを作ってやりたいという親神様の御思いがです。やはり、そういうところに突き落とさなければ、ならない神様としての働きがあることを感じます。獅子が百獣の王と言われるためには、そういう試練を通らねば、百獣の王とはなれない。その資格を取らせるためには獅子が**いうても、子供を千尋の谷へ突き落とす。そして、それをです。言わば、血みどろになって這い上がって来る。その子供だけを育てる。人間万物の霊長としての値打ちをです。本当に作ってくださる霊長の値打ちと言うのはです。いわゆる、人間と身代と達者とがね、足ろうて本当にそこに幸福を感じ幸せを感じれる様な私はおかげを頂いていく人の事を私は万物の霊長としての値打ちを備えておる人だと私は思う。ですから、私どもはそこに楽しみがある。なるほど手ががたがた震うような手の出るようなこともあるけれども、ここを辛抱しぬかせて頂く所に信心がある。ここに親愛がある。そこを金光様、金光様とお取り次ぎ頂いて頂きぬかせて頂いていわば、もっとそこんところに霊長としての値打ちというか、礼徳と言うか、神徳というか、いよいよ高級世界がそこにあるのです。どうして神様はこういう私どもが命を落とすような事であるところの辛いものが好きなものは辛いものを作りなさっただろうか。また、甘い物が好きすぎる人はどうしてこういう甘いものが食べ物の中にあるだろうと思う。けれどもです。そこにたとえば、苦しんでおる間はこれは霊長としての値打ちはない。そこを頂きぬかせてもらう。それを辛抱し抜かせてもらう、という。私は信心が身につける。けれども、その道理がわかってくると元気が出てくるです。その人がいう、はあ神様本当に言うならば、そういう御神徳をくださるために、そういうものがあることが分かる。「また、それを煮て食べるとき、神様頂きますと言うような心あらば、当る事なし」悔い得ような問題があってもそれをまた、こういう難儀な問題がおきてきたんじゃあなくて、それを頂きますと言う気になる。それを合掌してうけますという気になる。そこにはあたることがない。それを頂きますという心がないから、あの人がああいうた。この人がこういうたと言うて、自分の心を**に砕かなければならない。それを頂きます。そこに大きな豊かな心の信心が求められるわけなんですね。昨日、成婦人の方が毎日参って来ます。未亡人の通る象に18年間、毎日参ってこられる。本当にその方は何と言うか、理知的というかよく言えば、悪い言えば、冷たいと言う感じの始めはそういう人でした。段々、お参りをされる中に人間もずうっと変わっていかれる。先生、この頃本当に使こうて減らぬ金百両とおっしゃったり、また、入るだけは風が持ってくる木の葉かなと言ったような御理解を頂くことでございますか、もうまったくその通りでございます。別に私どもが贅沢するほどの余裕があるはずはございませんけれども、おかげで最近はもう年をとっておられますけれども、お茶の稽古に参ります。お花も稽古させてもらいます。非常に俳句なんか達者になさる方ですから、俳句も一週間いっぺん位稽古にいかれる。信心はもうそれこそ、日々熱心な信心が出けておられます。そういわれるんですよ。はあ、ありがたいですね。今どうですか。だいたい、いくら方位の値打ちがあるですか。使こうて減らぬ金百両と言うが、百両が百両と言う金が何時もいくら使こうてもいくら使こうても金百両があると言う人もあるです。千両ある人もあるかもしれん。そして笑いながら、先生私は思いますのに、二千*、二千*位のおかげは頂いておるようでございます。もう、これは、使こうても、使こうても何時も二千*はあります、といってわらわれる。なるほど、これが三千*になり、一万*になるようなおかげを目指しておりますとこういわれるのです。なるほど、お徳を受けていかれるなあと私は思うのです。人間と身代と達者とそういう目に見えない身代が出来てきよる。これを百万*の金を持っておったですよ。十万*使えば、90万*になってしまう。50万使えば、あとは50万ああ、もうだんだん少のうなっていく。そういう寂しさというものはそれはどうにも出来ない。だから、バタバタせんならん。けれども、使こうても、使こうても減らぬ。いわゆる金の二千*というものがです。身についていまよる。それが使こうても使こうても、いわば、それは先生不思議なことです。今月は少し余計に収入がいるというた時にはそれだけちゃんとお繰り合わせ頂く。いわゆる、いるだけは風がもってくる。いわゆる自然が持って来てくださる。いるだけは風がいるだけ持ってくる木の葉かなである。そういうものが自分の身についてきよる楽しさ。それが、今日ここに32節にあらわれて来るような御教えというものが、身に付いてこなければ、おかげがうけられんのですよ。昨日ある方が毎朝朝の御記念に参って来ます。今日ちょっと遅くなったから、バスの停留所でここ最後の方うしいですね。もう、おじいさんです。元大佐迄くらいになられた方らしいですね。何時もあなたとここでお会いするが、何時も合楽にお参りしようとしちゃあ合楽に毎日朝参りをしなさる。やっぱり、おかげですね。あなた方は、もうお顔が、つやつやしてなさる。本当に健康そのものである。本当に早起きは三文の徳と言うから、やっぱり、早起きして朝参りされるということは、ありがたいことですね、とその方が、言われるそれはもうありがたいことです。同時にあちらの親先生はこういうことを言われるのですよと言って話された、というのはここにお参りしてくるのならね。皆がまず、第一人相が変わるぐらいにならにゃいかんよといわれます。人相が変わってこにゃあだめだ。それを聞かれたらですね。そのおじいさんがもう、それこそびっくりされたそうです。ほう、そぎゃんことあちらの先生は教えなさるのですかとたまげられたということです。ただ、お金儲け、ただ病気直し、何かお伺いがい事がまじないかのように思っておったその人がです。人相が変わってくるほどのおかげを頂かなければ、いけませんよと言われると言うこと、内容が変わらなければ必ず、人相が変わるんだと言うことをそのおじいさん知っておられるんです。知っておられるけれども、お互いが内容が変われんところに信心の教えがあり、道があり、こうさして頂くところからです。段々人相が変わっていくのです。これは皆さんもそうですよ。本当に日々ですね。やはり、鏡を前におかげを頂いて自分の人相が段々いわゆる円満におだやかになっていきよる。楽しみに信心しなければ、いけません。いわゆるどういうことになりますか。人間が出けて行く達者がそこに約束されていく。人間と身代と達者とがたろうていく。それには唯今私が申します。この32節の表面に出ておる女が野菜畑に出てから、お野菜を抜くときに大地を拝むような心持ちにと言うふうに表現しておられる。又、それを抜くとき神様頂きますという心あらば、あたることはないとこういう。どういう腹立つ問題でもそれを頂きますとこちらが頂きますと言うことになれば、おまえの息子はバカじゃと言われてもおかげで信心が出けますということが言えるんだ。ここにそういう心になれば、おかげがあるとおかげがあるとこれは断言しておられます。そういう心になるとおかげがあるんだと同時に最後にはそういう心あらば、あたる事なし。いわゆる人間がだんだん出来てくるということなんです。どうして神様は子のような人間が困らなければならないようなもとを作りなさったのじゃろうかと。言うならば、わからん時には神様を恨みたいことがあるけれども、その向こうにです。いうなら、私はそれは滅亡の世界とこういうまた、お徳の世界ともいうのである。滅亡と言うのは法を滅する世界。甘いものが好きな人が甘いものを食べても言わば、全然それが罪せられない。その法にかからない法を滅した世界。その世界に入らせて頂いたら、食べ過ぎることもなからなければ、飲み過ぎることもない必要なものが必要に応じてそれこそ手ががたがた震えてくることすら、なくなってくるであろう。そこには人間の本当の幸福の世界と言うのがある。そういう世界に這い上がって来ることを神様の願いとなさっておられる。そういうたとえば、家庭においてです。私ども下から這い上がっておるようであってもまた、元に落ちる。また、落ちる。これでは、どうどうまわりですから。ですから、これを平易に例えば、私どもが頂いたら、例えば、ちょうど女が野菜畑で野菜を頂くときに地を抜くようにそれを煮て食べるとき神様頂きますと拍手して頂く様にそういう例えば、心がけに日々ならせて頂くと言うことが即信心生活であり、そういうおかげを受けていくという所に私どもの願いが成就するだけではない。神様の願いが成就していくのですよ。そこで又、思われることはこりをつむな。こりをつますなとおっしゃる。これは三井教会の初代久留米の初代は信心辛抱とおっしゃる。福岡の初代はバカとアホ-で道を開けとおっしゃる。はっきりこの三つを頂きましても今日の御理解にピッタリくるようです。本当にバカとアホにやはりなりきらしてもらう信心辛抱しぬきからうけれども辛抱することが辛抱だと分からしてもろうて辛抱し抜いて行く。こりを積ませんと言うことはなかなか難しい事であってもどのような場合であっても自分がこりを積まんと言うことは本気になりゃあ出来んことはないと言う様にです。おかげをいただいて参りますとそこからですね。この三つのまあ、いうなら柱にしての信心になってくるとそこに信心生活がある。それには今の女が菜園に出てという御理解が内容として頂かなければならない。そして、三人三様今日ここの御信者さんの事を申しました。おかげでいわゆる目に見えない身代、しかも限りのない身代おかげで二千*ぐらいの徳を受けておるだろうと自分で感じられるいや自分は五千*の徳は受けておると言うふうに段々それが向上して行くための楽しさ同時にその甘いものの好きな人の事、なるほど、合楽には自分の人相が変わっていく事の楽しみにお参りしておると言うような中にです。今日の御理解の深さと言うかね、内容があると思うのです。どうぞ。